人生における進歩主義を捨てられると幸せ?
人生における進歩主義がありそう
- 人生において走り続けて、何かしらの評価軸における自身の進歩を追求してしまう、みたいな
これは、幸福の手段である「進歩」が目的化しているような状況
ただ捨て方は分からない
- 社会との関わりを絶って隠居するならまだしも、進歩を良いとする社会に没入している以上難しそう(?)
- 基本的に周りも同様の思想/信仰を持ったコミュニティに所属しているので、この思想を捨てることはコミュニティから抜けることにもなるというハードルもありそう
- あ、これが
/tkgshn/「地獄ストイック村」という病いにおいて「村」と表現している物..?
- 抜けれるというのは大事だな
- あ、これが
/tkgshn/「地獄ストイック村」という病いにおいて「村」と表現している物..?
まあ別に全部捨てる必要はないのか
- 進歩が目的ではなく手段であると認識すれば良いだけな気もする
- あとは、進歩主義モードとそうじゃないモードを自分の中で制御するとか
- 手段としての「手段の目的化」、という考え方
- 進歩によってしか得られない幸福を得るための手段として「進歩主義モード」を制御/活用するみたいな考え方が出来れば良さそう
- このON/OFFの制御bility、すごい大事な気がする
- ストイックなコミュニティだけに足を置くと「進歩主義モード」をOFFに出来なくなる
- それはそう、趣味とかある前提
- 手段としての「手段の目的化」、という考え方
- これが全てだと思う
- 自分の目標(短期的、中長期問わず)と環境のインセンティブを一致させることはものすごく大事で、究極それがずれていたら何も進捗しない
- これをテクネーとしてやれるかどうかっていうのが、自分的には起業家として一番意識するところかな
- あ〜
これと混じっているが論点が違う話として、内的モチベで動いていたはずが、外的評価がいつの間にか混じってしまうのもありそう
- 進歩を自発的に選ぶか、他のものに強いられるか、という点
/tkgshn/「地獄ストイック村」という病いと似ている?
- もちろんその進捗=幸福度じゃないみたいなのは当たり前すぎるので元々のページでは言及してない
個人的には、技術as宗教みたいな幸福の手段とも関連しそう
- 世界についての進歩主義への信仰(技術as宗教みたいな幸福の手段)と、個人についての進歩主義の信仰(このページ)に共通するものがあったりしそう?
- (本来の定義かは分からんが、根拠のない支持を信仰と言っている)