サイバネティクス全史
全体の学び
- 「一般化・シンプルな記述」主義が良いとは限らないんだなーと思わせられた
- (魅力的すぎるがあまり?)非科学的な話と繋がってしまう
- 具体的な情報が抜け過ぎて、無意味な一般化になる
- 極論を言えば「存在する」だって全ての事象の一般化になる
全体のまとめ
- EEに置いて注目したいのは、悲観論と楽観論がしている
Chapter 1
- 人とマシンの関係が変化した頃(ww2)の流れが描写されている #マンマシンインターフェース
- Wienerが結構ダサく描かれているw
- 体形ずんぐりみたいな表現があったり
- あんまり評価されなかった感じが描かれてたり
- 価値が理解されなかったみたいなテンションではなく、価値なかったみたいな感じで書かれている
- MITの天才教授みたいなpublic imageが多いから、まずそれを第一章で壊しにいってるのかな
- Feedback Loopが各所で独立?に生まれて使われ出している
- 「サイバネティクスは20世紀有数の思想、イデオロギー」
Chapter 2
- 生命であれ人工的なものであれ、信号が存在するという思想
- 最初のウィーナ会議では共通言語がなく、分野間の対話が上手くいってなかった
- 会議を重ねるうちに、だんだん共通言語が生まれた
- From Newspeak to Cyberspeak: A History of Soviet Cyberneticsでいうとこのcyberspeak
- 会議を重ねるうちに、だんだん共通言語が生まれた
- p70
ウィーなーはマシンを擬人化する傾向があった
- 制御とフィードバックは専門的だったけど、三つ目の概念(人とマシンの合体)はもっとSFチックでワクワクさせられるものだった
- 人と機械の相互作用
- p72
- 人文学と工学の融合
- p90
- 冷戦初期のコンピューター・サイバネティクスの盛り上がりの話
- 「一般理論」
- ウィーナー(知名度上がって発言力増した)が、「Rise of machines」に警鐘を鳴らす
- 軍事利用もどんどんされてきている
Chapter 3
オートメーションの不安と楽観について書かれている
- 社会がどう反応したかがメイントピック
- 雇用が奪われる不安とか
- 米政府も反応 p126-140周り
あとは軍事利用(全米規模のネットワークなど)
「ボタン戦争とオートメーションの暗黒面」p121
1950sのオートメーションをめぐる論争のながれ p122
- まず過剰な悲観が優勢
- その後過剰な楽観論にひっくり返る
悲観論 p136
- ロボット工場、大量失業、ブルーカラー求人の消滅、尊厳の喪失、生死を決めるマシンによるボタン戦争
- ウィーナーも
ただ、結局1960sには失業は起きず p136
1960sのオートメーションの原動力
- どちらも生産力で相手に勝たないといけなかった - オートメーションは国の存続を握っている p138 - > 社会でのマシンの役割というのは、アメリカの保守派とソ連の共産主義者が共有の土台を見出した数少ない問題の一つだった - これかこうとしているEEの本質かもしれん
哲学寄りの話も真ん中辺に
- ウィーナー「人間の創造物である機械が人間に勝るなら、神の創造物である人間も神に勝てるんじゃね」みたいなp118
- 機械と人間を同一視している
- 「ダーヴィンによって猿と同列にされた人間、今度は機械と同列にされる」p119
- 唯物論的
Chapter 4
- フォンノイマンとの比較でまたウィーナーdis
- 1950s-60s
サイバネティクスは当時のエンジニアの間では大流行していた p152
- サイボーグの研究について、「ソ連の技術文献には、これと同じ分野の多くを研究している資料がある」p155
- 後半は、サイボーグ、人機一体的なものの始まりが描かれている
- 人間に感覚のフィードバックを返すのが要だね、という話
- 面白いけど、EEにはあまり繋がらなそう?
- 宇宙開発とも関わってくる(過酷な環境で生きるため、という)
- p155, p173
- 「他方、科学的概念としてのサイボーグは朽木のように死んでいた」p173
- 技術不足で理想に現実が追い付かなかったという話
- p177 機械と人が共生する未来もあるよねーと考えられてたという話 これ今の現実がそうっぽい
- p182
- (SF作家や映画の脚本家は関心を持っていたけど、)
科学や工学では「サイバネティクス時代」は1970年代の初めには過ぎていた
科学者と工学者は去り、もうサイボーグを生み出すという考えの虜になることは無くなった
- 1980sに、メタファーとして復活する
- p183
Chapter 5
summary: 前半は全体論の話(~1970?), 後半はヒッピー文化の話(1970s~)
サイバネティクスというマシンの普遍的理論は、あまりに強力で、あまりに訴えるものがあり、それを受け止める創造性に溢れた人たちがあまりに多過ぎた。結局、きちんとした科学の枠内にとどめておくことはできなかった p195
- 全体論(自己と環境の壁が曖昧になるなら、全部まとめてしか見れないねという考え)は「擬似科学の悪鬼の亡霊」とウィーナーは表現 p194
ダイアネティクスはサイバネティクスの影響力を利用しようとする無知なものの試みのように思える
- 外科医の書いた自己啓発本とか
ウィーナーとかウォルターが否定しても生き続けた
1970年の頃には、本格的な学問的企てとしてのサイバネティクスはすでにピークを過ぎていて、間も無く衰退を始めた。その遺産を評価するのは難しい。p199
一方で、サイバネティクスの思想や用語は見事に成功し、制御工学、人工知能、さらにはゲーム理論といった他の分野を形成した
それでもサイバネティクスは生き続けた、ボストンの研究所ではなく、カリフォルニアのカウンターカルチャー共同体で。
コンピューター悲観論のカウンターカルチャーとして存在 p220
35年ほど前、ウィーナーらの初期のサイバネティクス学者は、自分たちの新しい科学を全体論から守ろうとしたが、今やハイフロンティアーズ(ヒッピー文化)が全体論の悪霊を丸ごと新しい水準に進めた p225
- コンピューターと薬物が同じ役割に(p222前後)
IBMのビッグブラザー的コンピューターのイメージに対して、Appleのコンピューターが解放的なイメージ p225
- インターネットも p223
アナーキズム的な点でソ連のイデオロギーともつながるな
#サイバネティクス