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バーチャルリアリティは「悪」か

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    https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2009/60/2009_60_67/_pdf/-char/ja

    • 全体的な流れとして、VRを不完全,unreal, 悪とする様々な主張を提示した上でそれに反駁している感じ

      • その上でrealityとVRを相対化
    • 経験機械の話

      • 実際︑人生において一定の状態に陥った人が︑この機械を

      • 選択するであろうことは十分に想像できる︒ここであえて

      • ﹁一定の状態﹂としたのは︑それを﹁不幸な状態﹂と記述す

      • ることで一挙に倫理学的な幸福論にまつわる煩雑な議論に巻

      • き込まれることを避けるためである︒ある種の︵単純な︶幸

      • 福論的発想からすれば︑経験機械につながれることを欲する

      • のは︑人生の苦痛に耐えかねてアルコールや薬物に依存する

      • ようになるのと同じ﹁現実逃避﹂であり︑その人物が︑たと

      • え酩酊あるいはトリップしている間にどれほどの主観的な幸

      • 福感を感じていようとも︑それは偽物でしかない︒幸福とは

      • 一時の主観的快楽ではなく︑自身でどのような人生を切り開

      • くのかということと関わるというわけだ︒

    • 従ってVRの理論が心理的快楽説と共倒れになる必要はない

      • これ、ちょっとまだ掴めていないが大事そう
    • 前提として、水槽の脳において「自分は水槽の中の脳である」と認知することは論理的に不可能

    • なので、完璧な水槽の脳が実現した時に、自分が水槽の脳でどうか迷う必要はなくなる

      • ので、水槽の脳の人生が虚しいものである、みたいな主張は不合理
    • これはあくまでも「別のReality」に没入した時の話をしているので、多元的Realityにおいて同様の論理構成はできない?blu3mo.icon

      • いや、別にできるかblu3mo.icon
    • 自分が古典的現実と異なる現実に没入していることを認知している時に同様の論理は成り立たなさそうblu3mo.icon

    本稿はこの主張を支持するが︑RとVRの差を相対化する議論のほとんどがVRの精度は原理的にいくらでも上げることができるということに依拠している点に関しては︑もう少し論じてみたい︒

    • おっblu3mo.iconblu3mo.icon

    というのも︑現代哲学において﹁身体﹂を持ち出す論者の多くは批判対象としていわゆる﹁記号計算主義﹂︵computationalism︶を挙げることが多く︑これをどう考えるかということはコンピュータの存在を前提にしたVRの理論にとって死活問題になるかもしれないからで︵)ある︒

    • とはいえ別に脳の機能を完全にブラックボックスとして捉えても別にすごいVRは作れるので、記号計算主義が倒れてもVRの限界が示されるわけではない

    人工物としてのVRとその限界

    • 結局バーチャルな現実も、物理的現実に存在する人工物に基盤を持つ
      • そして、コンピュータの技術的制約(バグ、ラグ、処理速度など)に縛られる
      • まあでもそういうものとしてみれば不完全でも不自然ではなくなる

    さて︑以上では︑VR世界がR世界のなかで作られた人工物であるがゆえの﹁劣化﹂について考察し︑両者の差異を原理的なレベルで相対化する議論をおおむね支持した︒ただ︑そこで問題にされた劣化は︑言ってみれば﹁事実的︵理論的︶劣化﹂であった︒実際これまでのVRにおける劣化の議論のほとんどすべてがそうであったようにも思われる︒しかし︑これに対して﹁価値的︵実践的︶劣化﹂ということを考えてみるべきかもしれない︒両者は︑さしあたっては区別されるべき問題である

    • おっ、価値的劣化は一番興味持っているところblu3mo.iconblu3mo.icon

      • しかるに︑多くのVR批判においては︑価値的問題であるものが︑あたかも理論的な本質であるかのように語られることが多いように思われる︒これは︑R世界の﹁豊穣さ﹂﹁創造性﹂に対するVR世界の﹁貧弱さ﹂﹁空虚さ﹂といった価値語による対比が頻繁に使用されることをみれば︑あながち邪推ではないだろう︒

      • いやそれblu3mo.iconblu3mo.iconblu3mo.iconblu3mo.iconblu3mo.icon
      • マトリックス等のディストピアとして描かれるアレについて
        • それらは物語の創作者による︑いわば論点先取的な価値づけを与えられているにすぎないからである︒

        • いやそれblu3mo.iconblu3mo.icon
      • VR世界の設計者の道徳的「良さ」が懐疑の対象にはなる
        • それはそうblu3mo.icon
    • 多元的現実について

      • 数ある多元的な現実のなか

      • で﹁日常世界﹂だけが﹁至高の現実﹂︵paramountreality︶

      • という特権的な位置づけが与えられていることに注意が必要で

      • ある︒この特権性は何に由来するのだろうか︒私見では︑

      • この特権性は﹁倫理的﹂なものであるにすぎず︑かつその倫

      • 理性は︑安彦一恵が指摘するように︑たんなる﹁慣れ﹂とい

      • うことに基づいているにすぎないように思われる︒そうだと

      • すると︑VRを﹁悪﹂であるとするのは︑ある種の﹁保守

      • 性﹂の表現であることになる︒

        • え、いやそうblu3mo.iconblu3mo.iconblu3mo.icon
          • 直感的には自分もそう思ったけど、それ以上の根拠をシュッツは用意していると期待していた、、、blu3mo.icon
        • まあここはもうちょい他の視点を引っ張ってきても良いかblu3mo.icon
    • 結論

      • ここまでくると︑残された紙幅でつけ加えるべき結論は陳腐なものとならざるをえない︒人工物としてのVRだけが﹁悪﹂である可能性をもつのではない︒また︑ライプニッツも当然認めていたように﹁現在﹂のR世界が﹁最善﹂でなく︑多くの﹁不条理﹂すら存在する以上︑そこにはつねに﹁改良﹂の可能性がある︒そのことは︑同様にVRというものにも﹁改良﹂の可能性があるということにつながる︒

        • まあせやな、という感じblu3mo.icon
        • いい話、という気持ちblu3mo.icon
    • え、論考で言いたかったこと大体言われたことない?blu3mo.iconblu3mo.icon

    • ベースにある倫理の基礎付はちょっと整理できていないので、明日改めて考えよう